日本史のトビラ

コラム

「弱小教団を繁栄させた蓮如の戦略」


 京都の大谷本願寺を拠点とする浄土真宗本願寺派は、始祖親鸞の教えを受け継ぐ正統な一派だが、信者が増えず弱小教団のままだった。ところが本願寺8世となった蓮如は、一代で大教団へと発展させたのである。
 大谷本願寺は、この時期、天台宗青蓮院の末寺になり果てていた。長禄元(1457)年、8世に就いた蓮如は、「天台宗から離れなければ未来はない」と考え、天台宗系の経典や仏像を風呂のたき付けに使うなど完全に天台宗と決別し、積極的に浄土真宗の布教を始めた。これを知った青蓮院の本寺・比叡山延暦寺は激怒し、僧兵を派遣して大谷本願寺の建物をことごとく破壊した。仕方なく蓮如は畿内各地に潜伏しながら布教を続けたが、延暦寺の妨害は激しさを増す一方で、信者が集まらない。ここにおいて蓮如は思い切って拠点を越前国吉崎へ移した。京都という大都会を捨て、新天地での発展に賭けたのだ。
 さらに蓮如は、布教方法を根本的に改めた。親鸞の教えを分かりやすく記した手紙形式の「御文」(おふみ)を考案して、信者を集め、有力な弟子に朗読させる一斉布教を開始した。
 この手法を用いるに当たり、蓮如は弟子に布教マニュアルを与えた。そこには「御文を最初から最後まで一気に読もうとするな。人の気は短いのだ。信者が退屈したり居眠りしたら、朗読をやめて何か面白い話をしたり、休憩を取りなさい。時にはあなたが能を演じたり、信者にお酒を振る舞ったりしてもよいだろう」といったことがこまごまと書かれている。人間の心理を見事に捉えたアドバイスだ。
 同時に、新たに女性や下層民を布教対象に加えた。特に、この世では救われないとされた女性に、「阿弥陀様は女性こそ率先して救ってくださる。死んだら必ず極楽浄土に行ける」と女人往生を断言した。結果、女性が蓮如の下に殺到し、その夫や子どもも入信することになり、信者は爆発的に増えていった。
 ちなみに、蓮如が女性に布教しようと思い立ったのは、生い立ちと関係があるという。蓮如の母は身分の低い女性で、蓮如の父が正妻を迎えると、幼い蓮如を残し、いずこともなく立ち去った。そんな哀れな母の影響も、女人往生を説くきっかけになったようだ。
 蓮如はいつも粗末な服を身にまとい、門徒に「仏の下に人は平等だ」と説き、彼らのことを自分と同じ道を歩む仲間だとして「御同朋(おんどうぼう)、御同行(おんどうぎょう)」と呼び、「私は彼らに養われて生きている」と謙虚に語った。こうして膨大な信者を獲得した蓮如は、吉崎から拠点を京都(山科)へ戻した。そう、見事カムバックを果たしたわけだ。

歴史作家 
河合 敦

◇河合 敦/かわい・あつし

 東京都町田市生まれ。1989年青山学院大学卒業、2005年早稲田大学大学院修士課程修了、11年同大学院博士課程(教育学研究科社会科教育専攻(日本史))満期退学。27年間の高校教師を経て、現在、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。講演会や執筆活動、テレビで日本史を解説するとともに、NHK時代劇の古文書考証、時代考証を行う。第17回郷土史研究賞優秀賞(新人物往来社)など受賞。著書に『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新聞出版)、『禁断の江戸史』(扶桑社)ほか多数。