東京・銀座の広島県アンテナショップに、「ビール注ぎ名人」と呼ばれる重富寛(ゆたか)さんが4年ぶりに出張したので、訪ねてきました。普段は広島市の繁華街で、家業である重富酒店の一角で「ビールスタンド重富」という角打ちを拠点にしています。今年5月のG7広島サミットでは、国際メディアセンターでその名人芸を披露し、内外のメディアで話題になりました。
戦前からある注ぎ口を復刻したサーバーと現代のビールサーバーを駆使し、注ぎ方を変えるだけで、一つの銘柄の生ビールの味わいや口当たりをさまざまに変化させて提供します。それぞれの異なった味わいは、注ぎ方の違いでメニュー化されており、今回の東京遠征では6種類を出していました。
「注ぎ方で味が変わる」という話を初めて聞いた時はとても信じられず、実際に広島を訪ねて体験する前は「催眠術かオカルトの類いか」と思っていました。どうしてそんなことが可能なのか。かいつまんで言うと、注ぐ時グラスに入る流量や流速を変えて、発生する泡の密度や液体中の炭酸ガスの量などを制御しています。味わいや口当たりに影響する要素を注ぎ方で物理的に変え、その結果生じる微妙な違いを再現性高くコントロールしているのです。実際に何種類か飲んでみると違いに驚かされます。
それだけでなく重富さんのビール体験には、単においしいビールを飲むという行為以上の面白さと感動があります。ビールを注いでもらう間や味わっている間に重富さんは、ビールがいかに人類を長きにわたって幸せにしてきたか、そのためにビールづくりを手掛けた人たちがいかに苦労したかなど、さまざまなお話を聞かせてくれます。
重富さんが繁華街の一角で営むビールスタンドは、営業時間が午後5時から7時まで。食事やつまみも出さず、一人2杯までの制限もあります。それでも時によっては数十人が行列をつくり、開店早々に行っても1時間以上待つことがあります。これだけ人気店なのに、客単価を上げようとしないのは、そもそもの営業目的が自身の店の売り上げではなく、お客さんを集めて近隣の繁華街に回遊させる“ポータル”の役割を目指しているからです。また、その知識やテクニックを惜しげもなく同業者に伝えていて、広島の重富酒店の近くだけでなく、全国で重富さんの弟子や生徒に当たるビール注ぎ職人を育てています。
重富さんのビール体験の神髄は、ビールを通じて世の中の人が幸せを感じてほしいという思いにあります。普通ではあり得ないすごいビール(モノ)と、面白いお話やお店での人との出会いなどの体験(コト)以上に、こうした姿勢や考えに触れることで1杯のビールが客にとって特別なものに変わっているのです。
誰にでもできることではありませんが、どんなサービス業にも通じる大切な要素を含んでいると感じます。重富さんは、客が店を出る時「行ってらっしゃい!」と声を掛けます。その声を背中に聞いて、客は少し前向きになっている自分に気付くのです。私もそうでした。
日経BP総合研究所 上席研究員 渡辺 和博

日経BP総合研究所 上席研究員。1986年筑波大学大学院理工学研究科修士課程修了。同年日本経済新聞社入社。IT分野、経営分野、コンシューマ分野の専門誌編集部を経て現職。全国の自治体・商工会議所などで地域活性化や名産品開発のコンサルティング、講演を実施。消費者起点をテーマにヒット商品育成を支援している。著書に『地方発ヒットを生む 逆算発想のものづくり』(日経BP社)。

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