「改易された領地を取り戻した立花宗茂」
柳川城主の立花宗茂は、関ケ原合戦で西軍方に身を投じ、領地を全て没収された。その後、宗茂は旧臣たちを熊本城主の加藤清正に預け、わずかな供回りを連れて上方へ上り、家康に御家再興を願った。だが、何年たっても良い返事をもらえず、立花家臣のほとんどは、他家へと仕官してしまった。
しかし宗茂は御家の再興を諦めず、徳川にアプローチし続けた。さらに、余暇を利用して、弓術や禅の修行に励み、連歌、茶道、香道、蹴鞠(けまり)にも磨きをかけた。慶長11(1606)年夏、家康はようやく宗茂に江戸へ下るよう命じた。
宗茂が将軍秀忠に拝謁すると、その場で幕府の旗本に任じられ、5000石を与えられたのである。つまり宗茂は、徳川家に再就職することになったのである。秀忠は、智将の宗茂を大いに気に入り、間もなく5000石を加増し、棚倉(福島県棚倉町)で1万石の大名に復活させてやった。関ケ原合戦から足かけ6年の月日が過ぎていた。
以後は秀忠の身辺警護などを担い、さらに慶長15(1610)年までに領地は3万石に増えていった。大坂夏の陣では将軍秀忠に近侍して参謀として活躍。そうした功績もあって、元和6(1620)年に何と、旧領柳川に復帰できたのである。石高は約11万石。3万石から一気に4倍に増え、関ケ原以前と同じ規模になったのだ。
関ケ原合戦で改易された大名88家のうち、奪われた領地を自力で回復し、しかも旧領に配置された人物は、立花宗茂ただ一人だった。翌年2月、宗茂は20年ぶりに懐かしき柳川城に入った。城は前任の田中氏によって大規模改修されていたが、城下から眺める景色は昔のままだったはず。きっと宗茂は感無量だっただろう。
晩年の宗茂は、3代将軍家光に慕われ、外出の際、家光は老齢の宗茂にたびたび供を命じるほどだった。しかもその智将ぶりを買われ、島原の乱が起こると、72歳の高齢だったが参謀として出陣している。そして4年後の寛永19(1642)年11月、宗茂は江戸において享年76歳の生涯を閉じた。当時としては、大往生だった。
全ての領地を没収された宗茂が見事に旧領を取り戻せたのは、やはり諦めなかったからだろう。宗茂が大名に復帰するまで6年の歳月を要している。これは、全てをなくした宗茂にとって、非常に長い時間だっただろう。さらに旧領に戻るまで20年を費やした。どんなに文武に秀で、立派な人格者であっても、もし宗茂に粘り強さがなかったら、決して旧領には復帰できなかったはずだ。ただひたすらに耐えて待った宗茂、それゆえ、勝利の女神がほほ笑んだのであろう。
歴史作家
河合 敦
◇河合 敦/かわい・あつし
東京都町田市生まれ。1989年青山学院大学卒業、2005年早稲田大学大学院修士課程修了、11年同大学院博士課程(教育学研究科社会科教育専攻(日本史))満期退学。27年間の高校教師を経て、現在、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。講演会や執筆活動、テレビで日本史を解説するとともに、NHK時代劇の古文書考証、時代考証を行う。第17回郷土史研究賞優秀賞(新人物往来社)など受賞。著書に『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新聞出版)、『禁断の江戸史』(扶桑社)ほか多数。

-120x68.png)
-120x68.jpg)