「ハワイの日系人」
今夏、14年ぶりにハワイのオアフ島に観光で訪れた。飛行機で降り立ったホノルル国際空港だが、正式名称を「ダニエル・K・イノウエ国際空港」と変更していた。ハワイ生まれの日系2世の名を冠したものである。イノウエは50年にわたって上院議員を務め、オバマ元大統領にも「この人がいなかったら私は公職に就かなかった」と言わしめた人だ。
1941年12月7日(ハワイ時間)、日本海軍が突然、ハワイの真珠湾基地に襲来し、太平洋戦争が勃発した。当時のハワイには、サトウキビ農園に出稼ぎに来た日本人移民が定着し、ハワイ社会における日系人の割合は4割近くに達していた。
ところが戦争の勃発により、敵国民とその子孫として憎まれ、アメリカ本土にいる12万の日系人は強制収容所に送られてしまう。だが、ハワイの日系人たちは、指導者以外は移送されなかった。強制収容してしまったら、人数が多いのでハワイ社会がまひしてしまうからだ。そうした中、ハワイ生まれの日系2世たちは、自分がアメリカ国民であることを証明するため、続々と兵士に志願していった。こうしてハワイに日系2世で構成された第100歩兵大隊が生まれ、本土の第442連隊(日系部隊)に編入されてヨーロッパ戦線に投入された。
彼らは「Go For Broke(当たって砕けろ)」を合い言葉に、すさまじい戦いぶりを見せた。戦死者・負傷者は数知れず、パープル・ハート部隊という異名を得た。負傷兵にはハート形の勲章が授与されるからだ。信じ難いのは、兵の数より負傷者が多いことである。これは、1人で何度も負傷したことを意味する。病院からの脱走も数多く報告されている。抜け出して戦場へ勝手に戻ってしまうのだ。日系部隊の活躍として有名なのは、ドイツ勢力内に取り残されたテキサス大隊約200人の救出である。この任務のために日系人兵士184人が戦死し、その数倍が負傷した。救出部隊と同じ数の犠牲者を出したわけだ。かくして日系人部隊はアメリカ史上、最も多く勲章を受けた部隊となった。
1946年、442連隊はトルーマン大統領から7回目の感謝状を受け取った。その際大統領は「諸君は世界の自由のために戦った。(略)敵と戦っただけでなく、偏見に対しても戦った。そして勝った。その闘いを続けよ。(略)勝ち続けよ。この偉大な共和国が、その憲法のいうとおり『すべての人びとの幸福をすべての時に』を堅持する国になるように」(『真珠湾と日系人』西山千著/サイマル出版会)、そうたたえた。
こうした涙ぐましい努力の末、ハワイの日系人は、アメリカで社会的信用を取り戻したのだ。ダニエル・K・イノウエは、そんな第100歩兵大隊に属し、片腕を失いながら英雄的な活躍をした日系人部隊のリーダーの1人である。
歴史作家
河合 敦
◇河合 敦/かわい・あつし
東京都町田市生まれ。1989年青山学院大学卒業、2005年早稲田大学大学院修士課程修了、11年同大学院博士課程(教育学研究科社会科教育専攻(日本史))満期退学。27年間の高校教師を経て、現在、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。講演会や執筆活動、テレビで日本史を解説するとともに、NHK時代劇の古文書考証、時代考証を行う。第17回郷土史研究賞優秀賞(新人物往来社)など受賞。著書に『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新聞出版)、『禁断の江戸史』(扶桑社)ほか多数。

-120x68.png)
-120x68.jpg)