日本史のトビラ

コラム

「経営の神様・松下幸之助」


 松下家は和歌山県和佐村の豪農で、幸之助はその家の8人きょうだいの末っ子として何不自由なく育ったが、父の政楠が米相場で大損したので、9歳の時に口減らしのために奉公に出された。夜になると母が恋しくて泣いたが、そんな幸之助に父は「昔から偉くなっている人は、皆小さい時から他人の家に奉公したり、苦労して立派になっているのだから、決して辛く思わずよく辛抱せよ」(松下幸之助著『私の行き方考え方』実業之日本社)と諭したという。この言葉は生涯、幸之助の心の支えとなった。
 15歳の時奉公をやめて大阪電燈に入社したが、精勤ぶりが高く評価され、配線工事の助手から短期間で工事検査員に出世した。仕事は1日3時間で終わる楽なものだったが、亡き父が「商売で身を立てよ」と語っていたので、その職に安住せず、思い切って松下電器を創設し、ソケットの製造を始めたのである。考案した二股ソケットは大当たりし、自前の工場を持つまでになった。
 大正12(1923)年、今度は長時間使える電池式自転車ランプを開発。これは必ず売れると信じ、大量生産に踏み切った。ところが自転車販売店は、まったく相手にしてくれなかったのだ。すると幸之助は社の命運を賭け、大阪中の小売店に数個ずつ無料で自転車ランプを配り、「品物が信用できると思ったら売ってください」と頼んだのだ。この捨て身作戦は功を奏し、数カ月もたつと、販売店から注文が殺到するようになった。自社の製品に絶対的な自信があったからこそ、こうした手法が取れたのだ。
 昭和5(1930)年、前年に始まった世界恐慌が国内に波及し、昭和恐慌となった。多くの企業が倒産し、ちまたに失業者があふれた。松下電器も売り上げは激減、倉庫に入り切れぬほど在庫を抱えた。幸之助はこの時期、病に伏せっていた。そんな社長の枕頭(ちんとう)に重役が集まり、「生産量と従業員を半減する」という幹部の総意を伝えた。すると病床の幸之助は、意表を突く言葉を発した。
「生産は即日半減するが従業員は一人も減らさない。このため工場は半日勤務とする。しかし従業員には日給の全額を支給する。その代わり全員で休日も廃止してストック品の販売に努力する」(前掲書)、そう命じたのだ。社長の意向を知った社員は、みんな狂喜した。
「松下電器という会社は、どんなことがあっても社員を見捨てることはしないのだ」。その確信が全社員に奮起を促し、山のような在庫はわずか2カ月で一掃された。
 幸之助は、以後もプラス思考でピンチを切り抜け、松下電器を世界企業へと飛躍させていった。何があっても決して悲観しないこと、それが苦節時代に幸之助が身に付けた、経営哲学の神髄であった。

歴史作家 
河合 敦

◇河合 敦/かわい・あつし

 東京都町田市生まれ。1989年青山学院大学卒業、2005年早稲田大学大学院修士課程修了、11年同大学院博士課程(教育学研究科社会科教育専攻(日本史))満期退学。27年間の高校教師を経て、現在、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。講演会や執筆活動、テレビで日本史を解説するとともに、NHK時代劇の古文書考証、時代考証を行う。第17回郷土史研究賞優秀賞(新人物往来社)など受賞。著書に『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新聞出版)、『禁断の江戸史』(扶桑社)ほか多数。