日本史のトビラ

コラム

「世界のホンダをつくった本田宗一郎」


 きっとラーメンの屋台の主人は、あまりの事にあぜんとしただろう。突然やってきた女性がありったけのラーメンを買っていったからだ。女性の名は本田さち。それを頼んだのは夫の本田宗一郎だった。
 宗一郎は研究熱心で、毎日夜中まで車やバイクの新技術を考えていた。だがその夜、外のチャルメラの音が気になって集中できない。もちろん相手も商売。だからラーメンを全部買い取らせたのだ。
 そんな宗一郎にある時、高松宮が「発明や工夫は、ずいぶん骨の折れる仕事だろう」と同情してくれた。46歳で宗一郎が藍綬褒章を受章したときのことだ。けれど宗一郎は「殿下はそうお思いでしょうが、私にとっては好きでやっているのですから全部苦労とは思いません。(略)人さまが見れば苦しいようでも本人は楽しんでいるのです」(『夢を力に』本田宗一郎著 日経ビジネス文庫)と答えた。
 強がりではなかった。大きくなったら車をつくるという夢に向かって進んでいる道のりでは、どんなことも辛いとは思わなかった。ただ、営業や経理は苦手だった。そうした不得手は、人に任せるのが宗一郎の流儀。だから会社の経営は、副社長の藤澤武夫に一任し、宗一郎は開発の仕事だけにまい進してきた。
 技術の開発に関して、宗一郎は他人のまねを極端に嫌った。部下が新しいマシンを完成させるたび、「どこが他社と違うのだ」と真っ先に聞いた。
 宗一郎は言う。「造物主がその無限に豊富な創作意欲によって宇宙自然の万物を作ったように、技術者がその独自のアイデアによって文化社会に貢献する製品を作りだすことは何物にも替え難い喜び」(前掲書)だと。そんな技術者魂が、世界的にヒットしたスーパーカブ号や独自の低公害エンジン「CVCC」の開発へとつながったのである。
 宗一郎は常々社員に「会社のためばかりに働くな。自分のために働け」と語った。結果としてそれが、会社全体を良くするという信念を持っていたからだ。
 宗一郎は「自分の好きなものに打ち込めるようになったら、こんな楽しい人生はないんじゃないかな。そうなるには、一人ひとりが、自分の得手不得手を包み隠さず、ハッキリ表明する。石は石でいいんですよ、ダイヤはダイヤでいいんですよ」(前掲書)、それを適所適材に配置するのが上司の仕事で、「そうなりゃ、石もダイヤもみんなほんとうの宝になるよ。企業という船にさ、宝である人間を乗せてさ、舵(かじ)を取るもの、櫓(ろ)を漕(こ)ぐもの、順風満帆、大海原を、和気あいあいと、一つ目的に向かう、こんな愉快な航海はないと思うよ」(前掲書)と語った。社員がやりたいことをやれる企業、これを自社の理想としたのだ。そんな職場だったからこそ、ホンダは世界的な企業に成長できたのだろう。

歴史作家 
河合 敦

◇河合 敦/かわい・あつし

 東京都町田市生まれ。1989年青山学院大学卒業、2005年早稲田大学大学院修士課程修了、11年同大学院博士課程(教育学研究科社会科教育専攻(日本史))満期退学。27年間の高校教師を経て、現在、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。講演会や執筆活動、テレビで日本史を解説するとともに、NHK時代劇の古文書考証、時代考証を行う。第17回郷土史研究賞優秀賞(新人物往来社)など受賞。著書に『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新聞出版)、『禁断の江戸史』(扶桑社)ほか多数。