「社会事業家・渋沢栄一」
新札(1万円札)の肖像となった渋沢栄一は「日本資本主義の父」といわれ、生涯に約500社の企業の創業や経営に関わった大実業家だが、それを上回る約600の社会事業を手掛けている。明治初期から深く関わってきたのが東京の「養育院」だ。明治5(1872)年にロシアの王族が東京を訪問する際に、東京に路上生活者が多いことから、明治政府が自活できない人々を保護したことが始まりだ。施設はやがて東京府の管轄となり、管理は栄一に委託された。
養育院の施設は上野の護国院の一部が充てられたが、ここを初めて訪れた栄一は驚いた。子どもたちが老人や病人と一緒の部屋に詰め込まれ、精気がなく、笑いも泣きもせず無表情だったからである。その多くは、親に捨てられた子だった。
栄一は生活環境が悪影響を与えていると考え、子どもを老人や病人と分けて生活させ、職員たちに「子どもが笑うのも泣くのも、自分の欲望を父母に訴えて満たそうとするため。なのに、養育院の子にはそうした楽しみがない。だから依頼心が起こらず、表情がなくなってしまうのだ。彼らに家族的な幸せを与えてやるため、あなた方職員は、子どもたちの本当の親になってほしい」と指導したのである。結果、子どもたちの表情はみるみる変わっていったという。
明治15(1882)年、東京府会は、養育院の費用を廃止する動きを見せた。慈善事業は怠け者をつくるだけだという理由からだった。栄一は勘違いも甚だしいと強く反対したが、翌16(1883)年、養育院の廃止が決議されてしまう。すると栄一は、東京府知事の芳川顕正と相談し、今後も養育院を存続させることに決め、運営のための基本財産づくりに奔走した。東京府の共有財産であった和泉橋の地所の売却代金、栄一をはじめ有志の寄付金などをかき集め、さらに明治17、18(1884、85)年からは広く一般から寄付金を募った。こうして運営のメドが立つと、明治18(1885)年から栄一は東京府養育院の院長となり、事務を総括する。明治23(1890)年、養育院は東京市に付属する公的施設に戻るが、その後も栄一は死ぬまで院長として養育院の発展に努め、千葉県安房郡、東京府の巣鴨、井の頭などへも次々と養育施設を拡大し、明治43(1910)年には1800人を超える子どもを保護するまでに発展したのである。
このほか栄一は、学校の設立、明治神宮や南湖神社の創建、関東大震災の復興支援、日米の民間外交など、多くの社会事業に携わった。新札の肖像に選ばれたのは、偉大な実業家というだけでなく、社会事業によって人々の幸せに尽くした業績も大きく評価されたからであろう。
歴史作家
河合 敦
◇河合 敦/かわい・あつし
東京都町田市生まれ。1989年青山学院大学卒業、2005年早稲田大学大学院修士課程修了、11年同大学院博士課程(教育学研究科社会科教育専攻(日本史))満期退学。27年間の高校教師を経て、現在、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。講演会や執筆活動、テレビで日本史を解説するとともに、NHK時代劇の古文書考証、時代考証を行う。第17回郷土史研究賞優秀賞(新人物往来社)など受賞。著書に『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新聞出版)、『禁断の江戸史』(扶桑社)ほか多数。

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