「人的資本」(human capital)という概念の根底には、人材が持つ能力や技能、資格など、生産力や経済活動に価値をもたらす資本(=無形資産)が企業の持続可能なビジネスを形成していく上で重要という考え方がある。効率性の観点から少ない人材で生産性を高めるという「人的資源」(human resources)の考え方からのパラダイムシフト(=根本的な変化)と捉えることができよう。つまり、人材を資本と見なし、企業の持続的な成長に欠かせないピースと考えられるようになってきたという根本の考え方の変化と見ることができる。
この人的資本に関して、2023年3月期の有価証券報告書から、上場企業など約4000社にその開示が義務化されている。これは金融商品取引法に基づく法定開示であり、本来ならば虚偽記載をすれば罰則の対象となる厳しい要件を伴う。しかし、現時点では、企業に義務付けられた記載、つまり人材投資額や社員満足度などの内容が、実際には記載通りの結果にならなくても虚偽記載とはならない。このため開示姿勢の積極性が損なわれないように考慮されているといえよう。とはいえ、冒頭で述べた人的資本の考え方のパラダイムシフトは企業の中で組織的に着実に行っていく必要がある。企業は、実際に投資額の実行や満足度を達成しつつ、中長期的な経営戦略、将来に想定するビジネスモデルの在りようを踏まえて、どのような人的資本が企業の競争力を維持するために将来的に必要かを、かなりの確度で確定することが投資家から求められているといえよう。
他方、生成AIの台頭など、テクノロジーの急速な進化により人的資本の概念に影響を与えかねない要素が生まれている。このため、これまで以上の事業環境の大きな変化が今後想定される中で、企業側が、5年先、10年先でも必要な人的資本を適切に捉えられるかという疑問が残る。さらに、無形資産重視を前面に打ち出してきたGAFAが主導するビジネスモデルのバブルがはじけ、むしろ無形資産よりオールドエコノミーといわれる産業の有形資産の価値が再評価され始めている。このような状況では、人的資本の考え方に多少の逆風が吹いてきているのではないか。このため、せっかく根付いてきた人的資本重視が、人的資源重視に戻っていくことが想定される。
日本企業は以前から終身雇用制が主流であり、人的資本を重視しているとも捉えられる。しかし、その対極にあるともいえるジョブ(業務)型の雇用は、どのジョブが将来必要なのかを判断する上で重要となる。企業は、終身雇用制では人にひもづくジョブを、将来のビジネスモデルに必要なジョブかどうかを見極めて、必要な人的資本として捉えられるかが焦点となろう。
これらを踏まえると、日本企業において人的資本の開示の在り方はどのように形成していけばよいのであろうか。人的資本の開示に関して金融庁が公表している好事例[注1]を見ると、「人的資本可視化指針で示されている2つの類型である、独自性(自社固有の戦略や、ビジネスモデルに沿った取組み・指標・目標を開示しているか)と比較可能性(標準的指標で開示されているか)の観点を適宜使い分け、又は、併せた開示は有用」としている。この「独自性」を、明確な将来的な戦略として組織として共有していけるかが最も重要と考えられる。
人的資本を重視する経営とは、ただ単に、DX(デジタルトランスフォーメーション)志向で必要な人材の確保を意味するのではない。将来のビジネスにどのようにひもづけるのかが重要な視点である。このためには、持続可能なビジネスモデルを組織として志向していくことが必要となり、経営層だけでなく、全ての社員が共有して目指す必要があろう。逆にそれがなければ、人材を資本と見なし、企業の持続的な成長に欠かせないピースと考えられるようにはならないのではないか。
(10月20日執筆)
[注1]「記述情報の開示の好事例集2022」2023年1月31日。「有価証券報告書におけるサステナビリティ情報に関する開示」の中の「2.『社会(人的資本、多様性等)』の開示例」。
株式会社大和総研 金融調査部 主席研究員 内野 逸

1990年慶応義塾大学法学部卒業。大和総研入社。企業調査部、経営コンサルティング部、大蔵省財政金融研究所(1998~2000年)出向などを経て現職(金融調査部 主席研究員)。専門は金融・資本市場、金融機関経営、地域経済、グローバルガバナンスなど。主な著書・論文に『地銀の次世代ビジネスモデル』2020年5月、共著(主著)、『FinTechと金融の未来~10年後に価値のある金融ビジネスとは何か?~』2018年4月、共著(主著)、『JAL再生 高収益企業への転換』日本経済新聞出版、2013年1月、共著。IAASB CAG(国際監査・保証基準審議会 諮問・助言グループ)委員(2005~2014年)。日本証券経済研究所「証券業界とフィンテックに関する研究会」(2017年)

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