2023年春闘では、約40年ぶりの高インフレの発生や深刻な人手不足などを受け、大企業を中心に高水準の賃上げが実現する可能性が高まっている。大和総研のエコノミストのレポート[注1]で、「2022年で2%程度だった定昇込みの賃上げ率は2023年に3%台に乗せる可能性もある」としているが、同時に「高水準の賃上げが実現したとしても、物価上昇率を上回らなければ家計の生活は豊かにならない」としている。この意味で現在の大企業を中心とする物価上昇への対応としての賃上げではなく、日本企業が生産性向上に裏付けされた実質賃金の引き上げを今後実現することが重要であろう。そのためには、実質賃金が長年上昇してこなかったことに対して、同レポートが指摘している以下の五つの問題を再認識し、それらの解決に向け官民一体で本格的に取り組んでいく必要がある。
まず「2000年1-3月期以降の1人1時間あたり(マンアワーベース)の実質賃金の推移を日米独で比較」すると、「日本の賃金上昇率は米国やドイツに見劣りする」としている。その要因は、企業が付加価値(≒粗利益)のうちどれだけ従業員の人件費として分配したかという「労働分配率」は、「2010年代末から日本の実質賃金を押し上げている一方、日本の労働生産性の伸び率は米国よりも低く」、「ドイツと同程度である」としている。しかし、日本はドイツよりも総労働時間が減少し、物価が下落してきたという課題を抱える。これは、デフレ下で日本企業の価格支配力が低下し、企業努力が「高付加価値化」(プロダクトイノベーション(=商品開発))よりも「コストカット(=費用削減)」「プロセスイノベーション(=業務改革)」に注がれたことを意味する。今後、日本でインフレが定着すれば企業の価格支配力が回復し、企業努力が高付加価値化へとシフトするなど成長力の強化が期待される。
次に日本の交易条件(=貿易での稼ぎやすさを示す指標)の悪化があるとしている。この点について「2000年初めに30ドル/バレル程度だった原油価格(WTIベース)は直近で70~80ドル/バレル台で推移するなど、この20年超で幅広い資源価格が上昇した」ことを挙げている。その結果、資源輸入国である日本では交易条件が悪化し、実質賃金の原資となる所得が海外に流出した。日本は2050年のカーボンニュートラル実現を目指しているが、化石燃料への依存度の低下は間接的に実質賃金の引き上げにつながるとみられる。
三つ目に、「日本の労働生産性上昇率は米国やドイツに比べ資本のプラス寄与が小さい[注2]。有形資本では非ICT投資が少なく、無形資本では特に人材投資(OJTは含まれない)で見劣りする」ことを挙げている。2008年にはリーマン・ショックに端を発する世界金融経済危機が発生し、人材投資は日本だけでなく欧米主要国でも削減された。しかしながら欧米主要国ではその後回復し、特に非製造業ではリーマン・ショック前を上回る水準にある。一方、「日本の非製造業では人材投資GDP比が2010年代前半まで低下を続け、その後も低迷したままである」としている。岸田政権は人材投資の促進を重要課題の一つに位置付けており、総合経済対策では「人への投資」の施策パッケージを5年間で1兆円に拡充した。欧米主要国でも人材投資が促進されており、例えばフランスでは、職業安定所がITスキルをオンラインで提供する会社と提携し、コースや資格の認証を提供している。日本の支援策が欧米主要国との比較などにおいて十分な規模や内容なのか検討し、必要な施策を講じる必要があるだろう。
四つ目に「労働生産性の『水準』に目を向けると、日本は主要先進国の中で最低である」ことを挙げている。とりわけ非製造業で課題が多く、2000年以降に生産性が低下した業種も少なくない。非製造業の14業種のうち、宿泊飲食や電気ガス水道など4業種では人口減少の影響を調整しても需要が減少しており、生産性も低下している。他方で、保健衛生では高齢化などを背景に需要が増加しているにもかかわらず、生産性が低下している。各業種の実情を踏まえたきめ細かな対応策を、官民を挙げて幅広く、粘り強く講じる必要がある。
最後に「日本では、可処分所得ベースの実質賃金が、社会保険料の増加によりほとんど上昇しなかったことにも留意する必要がある。生産性向上を背景に実質賃金が上昇しても、手取りの所得の増加にあまり結び付かないという状況が続いている」ことを挙げている。働き手の生活水準を引き上げる観点からも、給付の効率化や重点化などの社会保障改革の加速も求められる。政府がすでに実行に移しているそうした政策は、生産性向上に裏打ちされた賃金上昇を目指しているのであり、この意味でどの政策もおろそかにはできない。
[注1]神田 慶司、岸川 和馬、永井 寛之、中村 華奈子「持続的で高水準の賃上げ実現に必要なこと~国際比較・業種別の生産性分析から浮かび上がる日本の課題~」大和総研レポート 2023年3月10日
[注2]主要先進国の生産性などに関するデータが集計されているEU KLEMSデータベース

株式会社大和総研 金融調査部 主席研究員 内野 逸勢
◇内野 逸勢/うちの・はやなり
1990年慶応義塾大学法学部卒業。大和総研入社。企業調査部、経営コンサルティング部、大蔵省財政金融研究所(1998~2000年)出向などを経て現職(金融調査部 主席研究員)。専門は金・資本市場、金融機関経営、地域経済、グローバルガバナンスなど。主な著書・論文に『地銀の次世代ビジネスモデル』2020年5月、共著(主著)、『FinTechと金融の未来~10年後に価値のある金融ビジネスとは何か?~』2018年4月、共著(主著)、『JAL再生 高収益企業への転換』日本経済新聞出版、2013年1月、共著。IAASB CAG(国際監査・保証基準審議会 諮問・助言グループ)委員(2005~2014年)。日本証券経済研究所「証券業界とフィンテックに関する研究会」(2017年)
